愛にまつわるもの

愛に生きるという自分への備忘録。

聖書のすごいところ

今日は親戚の結婚式でした。

 

非クリスチャンが挙式で教会。

カタコトの日本語で話す神父のありがたいお言葉。

今までの僕は少し冷めた感じでそれを眺めてた。が、、

 

聖書の言葉や賛美歌を聞いて考えを改めました。

 

聖書ってすごいなって思ったのは、まさに「愛」を語っているところ。

 

いくら食べ物を分け与えたり、人々の為に体を焼かれようとも、そこに愛がなければ何の意味もない。とか、どんなにありがたい言葉でもそこに愛がなければ、それは騒音でしかない。とか、愛について語られてるんですね。

 

なんか、日本人がどうとか、外国人がどうとかを言うつもりはないんですけどね。聖書を身近なものとして育ってきた人たちって、刷り込みじゃないけど、愛を凄く重視してると思うんです。もちろん主観ですよ。

 

一方、僕の人生で言うと、愛についての表現や教育に触れることなんて無かった。タブーまでいかないけど、そういう色事は(愛は決して色事ではないけれど)どこか、恥ずかしい、という感覚があった。愛って自分の恋愛体験を通してしか実感として持てたことがなくて、家族にだって、表現するとしたらそれは勿論愛してるんだけど、愛してるなんて普段口にしないですよ、たぶん多くの家庭は。でも海外の方たちって家族に対しても友人に対しても、勿論恋人に対しても愛情表現がハンパないじゃないですか。それって聖書という媒体を通して何世代にも渡って人を愛することの土台が出来上がってるからなのかな、って今日賛美歌を聞きながら思ったんですよね。愛情表現はいいことだと思うんですよ、僕は。

 

だからなんで日本人が教会で?クリスチャンでもないのに?って冷めてた時もあったんだけど、そんなの関係なしに、あの神秘的で厳かな空間で、実態のない愛を表現してるんだから、そりゃアメイジンググレイスだって凄くありがたく感じますし、愛って素晴らしい、って思いましたよ。そこには信仰とかの概念は消えててね、ただただ「愛だなあ」と思ったわけです(笑)

 

 

つまり奥ゆかしさを日本人らしさとするなら、日本人にはああいった表現はなかなか難しいだろうから、非クリスチャンの教会挙式大賛成だな、って思い立った次第であります。

 

いい日でした。